要約すると、中世武士像ってのは、後の政権が意図的に美化して作り上げたもので、本来はそんなウツクシイ正々堂々としたもんじゃないんじゃねえの?って話。というか、ぶっちゃけ、ヤクザとか暴力団とか、そういう色が濃かったんじゃねえの?って話。自分的には、そらそうやわなあ、な感想。文化として称揚するのは、まあ、それはそれで熟してくればウツクシイ文化ではあろうが、真実と事実は違うぞってのが自分のスタンスだからな。
例えば八幡太郎。これは、戦前の唱歌では、思いやりのあるヤサシイ強い武士、という描かれ方をしていたが、とんでもない。
梁塵秘抄には、「鷲のすむ深山には 概ての鳥はすむものか おなじ源氏と申せども 八幡太郎はおそろしや」とある。
梁塵秘抄は、すげえオモシロイ書物で、万葉集とちょいと似たところがある。万葉集は、上は天皇から、下は餓死寸前の貧乏人まであって、それってまた、ものすっごい事だと思うのだが、梁塵秘抄は、言ってみれば、”民衆”の流行歌集。無論、編纂したのは貴族階級かその辺の学がある=ある程度以上の身分のニンゲンなんだろうが、ここにあるの歌を、上は上皇から、下は乞食まで歌ってるってのは、やっぱりものっすごい事だと思う。作ったのは、恐らくは職業芸能人だと推測されている。乞食=河原者。そこには、歌舞音曲を生業とする職業芸能人も含まれた。恐らくは、その中の遊女(江戸期の遊女ではなく)の類が歌い踊ったと思われる。で、それを、大喜びでみんなが習って歌う。このクニって、すげえな、とか思うけど、そこんところは、西洋の吟遊詩人などの職業芸能人と一緒か。オンガクってのは、為政者にとっては恐ろしいものなんだな、と、つくづく思う。
話がそれた。
ともかく、その八幡太郎だが、梁塵秘抄にある通り、ともかく、恐ろしい。後の世に美化されたのとは大違いな記録がざくざく出てくる。女子供でも容赦なく惨殺するわ、自分の過去のクツジョクを言い回っていた敵方のニンゲンをとらえたら、歯をかちわって舌をひっこぬき、木に吊した足元に、そいつの主君の首を置く、みたいな事をやっている。
でも、だから酷いってわけじゃなく(いや、酷いには酷いんだが)、それはそういう時代だったって事。江戸期にこれをやったら、堂々と酷いと言い切れるだろうが、平安末期の東国武士にとっては、これは全然酷くも何ともない。舌ひっこぬき云々の刑罰については、単なる私憤だけでなく、呪術的意味がある行為だったりもするんだろう。
しかし、同じ時代の京の貴族や京の武士=平家一門にとっては、それは野蛮そのものでしかなかった。文化レベルが違うのだ。レベルと言ったら語弊があるな。文化コードが違う、と言うべきだろう。
彼等の文化コードは、我々のそれとは違う。どちらかというと、ヤクザや暴力団に近い。戦の時の名乗りは、要するに、「てめえ、俺を誰だと思ってやがるんだよ!」というヤツである。自分より弱い者に対して、そりゃあもう、情け容赦も筋も法も無い。彼等は縦のつながりで生きている。所領が西国よりも果てしなく広い。だから、支配−被支配が強い。まず、民衆は叛乱を起こさない。起こせない。一方、近畿は横のつながりが強い。東国武士が西国に領土を得ても、民衆は横に結託して反抗する。だから、西国支配を断念した武士も多い。だが、九州は、となるとまた別。薩摩に領地を得た東国武士である島津氏は、そのまま強大な支配を続け、中世武士の文化コードを頑なに守り続け、貧しいくせに、強大な軍事国家を形成、維持し続けた。
中世武士的文化コードでは、ヤクザや暴力団と同じく、系譜が大事で、メンツが大事だった。だから、鎌倉幕府が武家諸法度を作った時に、「悪口厳禁」だった。たとえ、鎌倉様の採決で勝ったとしても、悪口を言っちまったモンは、もう、それだけで無条件敗訴。そのっくらい、ヤツラは無駄に誇り高かった。そうしなければ、延々と喧嘩は終わらないわけだ。